きっと整体院と高原信二の紹介

院長ってどんな人?

院長
高原 信二(たかはら しんじ)

長崎県雲仙市出身

1976年 8月5日に生まれ(A型)

2001年 長崎リハビリテーション学院卒業

2001年 医療法人友和会で理学療法士として従事

2018年 退職して全国でセミナー講師、整体院の治療コンサルタント

資格・修了技術など

・理学療法士免許

・日本障害者スポーツ指導員

・ファンクショナルテーピング

・ファンクショナルエクササイズ

・ファンクショナルインソール

・遠絡療法

・マイオチューニング

・タイ古式マッサージ

・ウェルスダイナミクスプラクティショナー

個性學エバンジェリスト

未来整体研究会 副理事長

その他、講演・学術・教育・トレーナー活動

・一般向け健康教室 200回以上延べ約5万人

・治療家向けセミナー 100回以上延べ約2万人

日本あしづかみ協会セミナー 特別講師

・学会発表(共演含む)200演題以上(優秀賞1回、学会長賞1回)

・論文掲載(共著含む)100題以上

・学会座長、シンポジスト 10回以上

・全国高校総合体育大会 佐賀商業バレー部トレーナー

・全国高校サッカー選手権大会 佐賀商業サッカー部トレーナー

・U-17サッカー佐賀県代表トレーナー

・全国高校総合体育大会 神崎清明高校男子新体操部トレーナー

・全国高校ラグビー大会 佐賀工業ラグビー部トレーナー

・全国高校ラグビー九州選抜チームヘッドトレーナー

・全国ジュニアテニス大会 トレーナー室責任者

・全日本ベテランテニス選手権大会 トレーナー室責任者

・国民体育大会ボート競技佐賀県代表トレーナー

・全国高校野球大会佐賀県大会 救護室責任者

・ボート競技日本代表合宿トレーナー

・ヨット競技日本代表合宿トレーナー

↑ 整形外科の学会で肩関節のことを発表しました。

↑ 学会は年間30本以上監修をしていました。

目次

小さいころから身体を動かすのが大好き

様々なスポーツを経験した学生時代

海外でスポーツトレーナーになりたい!

スポーツリハを提供する全国レベルの整形外科に就職

トレーナーとして多くの挫折。困っている人を助けられなかった

東京へ。トップクラスの指導者から学ぶ

「心と身体の不具合改善できる人になる」

「高原さんみたいなトレーナー、理学療法士になりたい」

このままで良いのか?次第に限界を感じ始めました

様々な出会いから教育事業へ

わかってきた治療家業界の現状

❶つは、医学的知識は、理学療法士と治療家と差があること。

❷もう一つは、身体を見る目(評価)と効果が出せる技術のスピードと質の違い

治療家が抱える問題と今後について

さらに、変化してきた症状と原因「脳への負担」

「新たな治療院のモデルを作りたい」コンセプトは?

「私がしなきゃ誰がする」という思い

ロゴと「きっと」の意味

小さいころから身体を動かすのが大好き

長崎県の雲仙普賢岳のふもとで、3人兄弟の3番目で、末っ子の長男で生まれました。生まれ育ったのが、山も海もある環境でしたから、幼少期は野山と川や海を駆け回っていました。

身体を動かすことが大好きでしたし、さまざまなスポーツを観るのも大好きでした。

とにかくあらゆるジャンルのスポーツ(毎週日曜日の早朝から実践ゲートボールなど 笑)のテレビ中継を観ては、お気に入りの選手や特徴的な動きをする選手の真似をしていたのを覚えています。

このころから、人の動きや特徴を探るのが好きだったんだと思います。

様々なスポーツを経験した学生時代

小学1年生から5年生までソフトボール、5年生から6年生までバレーボール、中学生ではサッカー、高校生では陸上を経験しました。

高校時代の陸上部は全国でも強豪校で、全国チャンピオンも排出している学校でした。
私は陸上界では花形種目と呼ばれる円盤投げをしていました。(笑)

強豪校あるあるで、大会では各高校からの出場枠が決まっているため一度も試合に出ることなく3年間を終える選手もいます。

大会に出るためには、先輩後輩関係なく校内選考会で勝たなければならないため、全員がライバルで技術的なことを教え合うことはほとんどありませんでした。特にパワーが必要とされる投擲(とうてき)競技において、私は圧倒的に不利な体格であったため、大きい選手に勝つためには効率的な体の使い方やハイレベルな技術を研究しました。

最終的には全国大会への出場はできませんでしたが、九州地区で入賞するところまで行くことができました。

高校最後の大会後、初めて後輩に私の積み上げてきた理論と技術を指導しました。

すると、直後の九州大会に出場した後輩が見事1位2位を獲得し、自分が入賞した時とは違う何とも言えない満足感・充実感を感じました。
そこで、指導・教育という分野に強い興味を持ちました。

海外でスポーツトレーナーになりたい!

幼少期から身体を動かすのが好きで、人の動きの特徴をいち早くつかんで真似するのが得意だったことが良かったのか、大きなケガをすることなく様々な競技をすることができました。

おそらく安全で効率的な動きができていたのだと思います。
今では一般的になっているスポーツトレーナーという仕事ですが、1990年代ではあまり知られていませんでした。

ちょうどKING KAZUこと三浦知良選手がセリエAジェノアに移籍した時に、ケガからの復帰パフォーマンスアップをトレーナーが担っていることを知りました。

その時、『これだ!』『海外でスポーツトレーナーになりたい』と思いました。

そのためには、まず身体のことを勉強しなければと思いリサーチしていて、まだ一般的ではなかったスポーツリハビリテーションというものを知り、理学療法士になってとにかくスポーツに携わる仕事に就こうと決心しました。

そこで、理学療法士の学校に入学しました。

スポーツリハを提供する全国レベルの整形外科に就職

理学療法士になった私は、とにかくスポーツリハビリテーションの充実したところに就職しようと、全国の病院や施設を探しました。

そして、今では全国でもトップクラスのスポーツリハビリテーションを提供する整形外科で有名な病院に就職しました。

そこでは、病院がバックアップしてくださって、勤務時間以外の時間にトレーナー活動をさせていただき、さらにチームが遠征や合宿の時は休みを頂いて帯同させていただきました。

トレーナーとして多くの挫折。困っている人を助けられなかった

スポーツ選手も患者さんも、仲間の思いや家族の思いなどいろんなものを懸けていました。

「この怪我で迷惑をかけたくない」「この不調のせいで全国大会に出れない」「どうにか治してほしい」そのどうにかしてほしいという思いに応えたかった。

しかし、新人のうちは、先輩たちや指導者達よりも明らかに実力不足の自分がいて、憧れであったはずの理学療法士としての仕事に挫折を感じることが多くたくさん悔しい思いもしました。

27歳の時、初めて責任者として行ったサッカーの全国大会で佐賀商業高校のエースの子が、2回戦の前々日の練習で足関節の捻挫しました。

3年目の私は、そのときのベストは尽くしましたが、2回戦で満足のいくパフォーマンスを出させてあげられませんでした。そのときは負けてしまい高校生活の3年間の最終戦が怪我の苦しみで終わった選手の悔し涙が忘れられませんでした。

このときの悔しさで私にスイッチが入り、病院内だけでなく自分から積極的に外へ勉強に行くようになりました。

東京へ。トップクラスの指導者から学ぶ

今まで、助けられなかった選手や患者さんに対して申し訳ない思いと、次に同じような症状の方が来た時により良くしてあげられるように勉強に惜しみはありませんでした。

とにかく、セリエA(ヨーロッパのプロサッカー)のトレーナーになりたかったので、
整形外科で働きながら、自腹で、月に1,2回は、東京などへ行き、全国で世界でトップクラスのトレーナーたちから技術と知識を学びました。

日本のトレーナーの始まりであるロサンゼルスオリンピックからトレーナーをとして活躍されていた理学療法士、医師たちから教わりました。

JOC(日本オリンピック協会)の本部医務班のトレーナーの方々に25歳から15年くらいご指導いただきました。

その技術と知識を佐賀へ持ち帰り整形外科の臨床と高校生などの部活動の現場で実践しながら学び、それを同僚や後輩たちに伝えていきました。

この日本のトップアスリートを見ている方たちからアライメントの診方や「全体とユニット」を相互にみるという考え方を学び、もっと他に何か良い方法はないかとそれ以外にも筋膜リリース、ジョイントファシリテーション、いわゆる〇〇法をたくさん学びまくりました。

西洋医学だけでなく、東洋医学や、遠絡療法も学びました。

高級車1台は買えるくらい勉強代に使いました。

「心と身体の不具合を改善できる人になる」

一生懸命、身体ばかりみていたけれど、多くの患者さんとケガをした選手をみてきて、身体の不調は、身体だけでなく、心も関係していることに気づきました。

そこで、心理学やコーチングを学ぶために、スポーツ心理学などの本を読みまくり、「これは!」と思うセミナーにも多数参加しました。個性學の勉強もその一つです。

この頃から自分の理念の一つである「心と身体の不具合を改善できる人になる」ということを決めました。

体の不調のその奥にある原因、検査しても悪いところがない選手や患者さんも徐々にサポートできるようになってきました。

「高原さんみたいなトレーナー、理学療法士になりたい」

バレーボール、サッカー、男子新体操、レスリング、なぎなた、ラグビー、ボート、ヨット、陸上などの全国大会や国体のトレーナーも毎年経験させていただきました。

自分がやりたいこと目指してきた仕事ができ、さらに選手やチームに必要とされ良い結果が付いてくることで、やりがいと充実感をとても感じました。

トレーナー活動や患者さんとして通院してくれていた高校生たちが、

「高原さんみたいなトレーナーになりたい」と言って、20名近くの子が理学療法士を目指してくれました。

実際に私の勤務先の病院に就職してくれた子も数人はいましたし、そこから、プロスポーツ選手(野球、ゴルフ)のトレーナーになった教え子もいました。

今、この子たちが、活躍していることをとてもうれしく感じます。

このままで良いのか?次第に限界を感じ始めました

しかし、一方でプライベートでは結婚し、3人の子供にも恵まれましたが、病院の休診日は、セミナー参加、学会、トレーナー活動と家族の時間はないのは当たり前で、2番目の子供の育児の記憶がほとんどないくらいでした。

支えてくれた妻には、とても感謝しています・・・

それを10年以上続けている間に、3人の子供はいつの間にかどんどん成長していました。

仕事外の時間にほぼボランティアに近い形でスポーツ現場に行き続けることで、家族と過ごす時間が取れず、このままで良いのかと次第に限界を感じ始めました。

様々な出会いから教育事業へ

これからの人生を考えた時に、本当にしたいことは何かを考えました。

そこで、自分の才能や価値を認識するためコーチングを受け、2年間グループセッションという形で他業種の方々と実践しながら学ばせていただきました。そのメンバーの中に治療家の方がいらっしゃいました。

名古屋の大型整体院の「幹整体院・鍼灸院」の代表であり、「足づかみ協会」も代表を務める倉幹男先生からセミナーのご依頼を受け、これまでの私が学んできたことや経験、想いをお伝えしたところとても共感していただき、「ぜひ全国の仲間にも伝えて欲しい」という要望を頂きました。

そして一念発起し、2018年に17年間勤務した病院を退職し全国でセミナー活動をさせて頂くことにしました。

わかってきた治療家業界の現状

「もっと優秀な治療家を増やさなくては!」「私がやらなきゃ」

3年間全国でセミナーを開催し、病院時代からトータル100回以上。約2万人の理学療法士、柔道整復師、鍼灸師、カイロプラクター、トレーナー、の方々にお伝えしてきました。

そんな生活をしていると、私の中にだんだんと「私がやらなきゃ誰がやる」という言葉が浮かんできました!

病院の健康保険で守られた環境ではなく、手術や薬以外で「どこに行っても治らない」と困っている人を助けたい。もっと「そこに対応できる優秀な治療家を増やさなくては!」

そうするには、自ら整体院を運営し、まずは「自分が見本を見せなくては」という思いが私の中に湧いてきました。

そして、理学療法士である私と他の治療家(整体、整骨院、鍼灸院、日本のカイロプラクター)とでは2つの大きな違いがあることに気づきました。

そこでわかってきたことは、

❶つは、医学的知識は、理学療法士と治療家との間に差があること。

これは、制度的に仕方がないことだと思います。

専門学校とその後の臨床の場の違いもあり、理学療法士と他の治療家が学校で教わる内容の医学的知識のレベルの差があることを実感しました。

さらに、理学療法士は、主に『臨床』『研究』『教育』、
一方、治療家は、それに加え『経営』という業務が加わります。

常に最新の治療技術や知識の習得は必要ですが、学ぶ環境がなかったり、社員の雇用や教育、売り上げなど経営面を考慮すると、いち治療家が、すべてを一人で行うことはなかなか困難だということです。

❷もう一つは、身体をみる目(評価)と効果が出せる技術のスピードと質の違い

スポーツ選手をみてきた目とそれ以外の一般的な腰痛肩こりの身体をみてきた目とでは、質とスピードが違うということ。

スポーツ選手と一般人の最終的なゴールの違いは、スピードとパワーです。

つまりスポーツ現場でみてきたスピードとパワーに比べると、日常生活動作のスピードとパワーは、ある程度見易く感じていたのだと気がつきました。

つまり、スポーツ現場で鍛え抜かれた私の目は、すでに一般的な治療家たちが見抜けない体の歪みや、不具合を見抜ける目になっていたということです。

治療家が抱える問題と今後について

多くの治療家たちは、治療方法に迷いがありました。

私も若い頃はそうでしたが、治療方法や技術をたくさん学んでいても、それはあくまでも小手先であるということに気がつきました。

私自身も、筋膜リリース、ジョイントファシリテーション、いわゆる〇〇法などを数多く学びました。西洋医学だけでなく、東洋医学や、遠絡療法など多くの治療方法を見て学んできた結果、結局、最終的にたどり着いたのは、最初に日本のトップアスリートをみている方たちに教えていただいた、現在の治療方法でした。

それは、症状に対して治療を行うのではなく、その人が今抱える問題に対して個々に原因を追究していくという、考えてみれば当たり前のスタイルです。

「アライメント(骨の正しい位置)調整」
「全体とユニット」
「筋肉の再教育」

とうい治療の考え方と技術です。

さらに、変化してきた症状と原因「脳への負担」

この業界に20年以上携わってきて、環境的に明らかに変わってきたことがありました。

それが、インターネット、スマホの普及による「脳への負担」「脳の疲労」「眼精疲労」です。

ここから来る体の不調が、臨床現場で年々多くなってきたのを実感し、体の不調を治していく上で、「脳疲労」「脳ストレス」は外せない状況になってきました。

人間はこれまで様々な環境の変化に対応するために進化を続けてきました。
これまでは、重労働や働き過ぎによる肉体的な症状がほとんどでした。

しかし、インターネットやスマートホンの登場により至近距離で液晶画面を見ることが増えています。
さらに、様々な情報が無意識に大量に入ってくるため脳が処理しきれず眼精疲労や脳疲労などが原因と思われる症状が増加しています。

これらに対応するためには、まず個人個人の現状をこれまで以上にしっかりと把握する必要があります。

そのため、経験に裏打ちされた人間の目と手による主観的視点と、テクノロジーによるビジュアル化・数値化された客観的視点が重要になります。

さらに、手による整体以外にも、その「脳疲労」に対応する新たな治療器が必要になったことを感じ、長年探してきてようやく「脳疲労に対応できる治療器(米国ストレス研究所共同開発)」に出会い、きっと整体院に導入することとなりました。

そのほかにも、合計4つのハイテクノロジーの機械を取り入れ、複雑化した現代病(姿勢不良✖️運動不足✖️栄養過多✖️脳疲労)に対応できる院にすることができました。

「新たな治療院のモデルを作りたい」コンセプトは?

当院の理念は、

「100歳をイキイキと超える身体作りのお手伝い」

そのためのコンセプトとして、

「解剖学 × 運動学 × 脳科学 × 栄養学」から施術とアドバイスを提供できる院

を掲げました。

ITの普及とAIの登場により私たちの生活は一変しました。

これまで人間がやってきたことをテクノロジーで補うことができるようになりました。

最新テクノロジーと人間とが融合しお互いの得意分野で共創することで、時間をかけずこれまでよりも効率的で有益な治療が可能になるのではないかと考えました。
人の温かさを大切にし、ハイテクノロジーの良いところを使っていく「治療院の新たな形」を作ってみたいという思いになりました。
どの整体院よりもトータル的にお役に立てる院にしました。

「私がしなきゃ誰がする」という思い

セミナー活動をしていく中で、これまで学ばせていただいた、評価方法と技術を広めたいという思いが増したこと。
また「整体院をやってくれないか」という要望も多かったこの大阪難波で、家族の元を離れ、理想の整体院を作ろうと思いました。
※月に1.2回は息子の少年野球チームのコーチとして佐賀に帰省。

妻と子供たちのいる佐賀から遠く離れたこの大阪の地で敢えて開業した理由は、

・全国の勉強会で知り合った仲間が多く「ここで開業してくれないか?」という要望が多かったこと。

・全国の治療家が見学に来やすいこと。

・単純に脳疲労、脳ストレスなど、街の生活のストレスから体の不調を訴える人が多く困っている人がたくさんいるのではないかと思われること

でした。
その第一歩をこの『きっと整体院』から始めたいと思い開院しました。